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『アーヤと魔女』感想レビュー!途中で終わった?伏線未回収?→大体原作どおりです(ちょっと難点あるけれど)

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邦題:アーヤと魔女
原題:アーヤと魔女
公開年及び国:日本(2021年)
上映時間:82分
監督:宮崎吾朗

<キャスト>
アーヤ・ツール(肝の座った女の子):平澤宏々路
ベラ・ヤーガ(怖い魔女):寺島しのぶ
マンドレーク(怖い小説家):豊川悦司
トーマス(使い魔のねこ):濱田岳
アーヤの母親:シェリナ・ムナフ
カスタード(アーヤの親友):齋藤優聖

<概要>
孤児院で暮らすアーヤは、いつのまにか人を思い通りにしてしまう、機転のきいたちょっとずる賢い子。ところがある日、意地悪な魔女がアーヤを引き取ることに。子供を労働力としてこき使ってやろうと脅しをかけた魔女であったが、アーヤは怖がるどころか、魔法に興味津々であった。

<こんな人におすすめ>
・活動的で大暴れする女の子が好き!
・不思議な魔法の物語が好き!
・原作にはなかった要素も含めて楽しみたい

<こんな人にはおすすめしない>
・おべっかを使う子供が嫌い
・伏線は全てキレイに回収されて欲しい
・原作と一致しないところがあると気になる

【個人的な評価】

ストーリー
★★★☆☆☆☆☆☆☆

画面映え
★★★★★
☆☆☆☆

ユニーク
★★★★★★☆☆☆☆

書きかけで終わってしまった原作を補うために追加した要素の一部が良かったため、その点は面白いと感じました。中途半端という批判が多いですが、実は結構原作通り。仕方のないところだと思います。

【ネットでのおおよその評価】

・生意気でしたたかなアーヤがいい!
・人物が皆面白い
・音楽がいい!CGも良かった
・いいエンディング

・物語が中途半端
・主人公が小賢しくて嫌い
・ジブリはCGアニメしなくていい
・伏線を回収しきれてない

主人公については賛否両論ですが、とにかく多かったのが物語が途中で終わるという批判。原作を読んでいるかどうかで評価が分かれてしまいます!ですが、読んでいなくても主人公のガッツを楽しんだ人もたくさんいるので、物語の構成と登場人物の活躍どちらに重きを置いているか、という個人の感覚なのかもしれません。

孤児院で幸せに暮らすアーヤ・ツールは、不思議な子。彼女の無邪気で大胆な性格は友達を惹きつけ、機転のきく小ずるさは大人を言いなりにさせてしまいます。ところがある時、アーヤはよりによって怖そうな夫妻に引き取られてしまいました。

おばさんの正体は、魔女ベラ・ヤーガ。魔法薬作りの人手として子供を引き取っただけであり、アーヤに対して愛情はありません。ですがそこでがっかりせず、アーヤは強気に「魔法を教えて!」と言い放ちました。

子供が毎日厳しい労働環境にさらされ、学校に行けるかも分からないという、本来であればあってはならない事態にもくじけず頑張るアーヤ。ですが、ベラ・ヤーガは一向に魔法を教えてくれません。そこでアーヤは魔法を独学で勉強。魔女に痛い目を見せてやろうと決めました。

『アーヤと魔女』は原作があります。なんと作者はダイアナ・ウィン・ジョーンズ。ハウルの動く城で有名な作家です。日本語訳は2012年に徳間書店から出版されていまして、挿絵は佐竹美保。実はこのイラストレーターさんはジョーンズの本のほぼ全てのイラストを担当しており、ジョーンズ本人から「世界中の挿絵の中で、彼女の描いたものが1番好き!」と言われるほど。

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佐竹さんのイラストですが、魔女の仕事場や魔法の部屋、魔法薬の材料や魔法の動物など、児童文学らしい可愛らしさがありつつも、ちょっとファンタスティックでおっかないところもある素敵なテイストをしています。実は元々ジブリの雰囲気とすごく相性がいいんです。それがほぼそのまま、CGアニメーションになっているんですね!

しかし、全てをそのまま反映しているというわけではなく、人物の外見や描き方に関しては逆に映画のオリジナリティが入っています(後ほど別項で述べます)。原作の方と人物のテイストを変えることにより物語の方向性が幸せになったと思いますし、一部で出来を悪く言われますけれどCG自体も全然いい感じでした!

また、内容に関しても原作にわりと忠実な流れとなっておりまして、セリフもほぼ一緒なところがあるほどです。そのおかげか、アーヤの強気なところが消えることなく伝わっているように思います。監督は宮崎吾朗、昔大炎上した映画ゲド戦記の監督ですが、アーヤと魔女に関しては厳しく批判されるような方向に原作を歪めて改変したということはなかったですよ!(そもそも映画ゲド戦記も、好きな方は好きです)

アーヤと魔女は原作にけっこう忠実なストーリーとなっていますが、実は大きなオリジナル要素があります。バンドチームEARWIGの存在です。アーヤの母親とベラ・ヤーガ、マンドレークは昔バンド仲間だったという設定なのですが、これが必要になってきたのにはおそらく理由があります。

理由1 原作は書きかけ。完成前に作者が亡くなってしまった

実は訳本の出版の1年ほど前に、作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズは亡くなっています。そのため物語の中に散りばめられた伏線の数々(アーヤの母親、12人の魔女、魔女とは何なのか、シエトロン、図書室は何なのか、デーモンの正体etc…)はそのままです。

さらに言うと、最終的にアーヤがベラやマンドレークと親しくなるのは原作と同じではあるのですが、「どうやって親しくなったのか」が原作には全く書かれていないんです。その穴埋めをするには、アーヤと2人の距離が縮まるようなきっかけが必要だったんじゃないでしょうか。

2人は怖いけれど本当は優しい心も持っているはずの大人、というのをたった80分で映画を観ている人に分かってもらうのは至難の業です。でも「実は主人公の母親とは昔、親友同士で楽しくしていた」という若い頃の写真があれば、ベラとマンドレークの悪者度を一気に下げられるんです。

そしてアーヤの母親についてのバックストーリーを追加して深入りすることで、原作では回収できなかった母親についての伏線を回収することにも成功しています。

理由2 ハッピーエンドにするためには人物の改変が必要だった

実は、ベラとマンドレークは原作ではあんまりいいところがないです。養子を働き手としてこき使う義母、自分を煩わせるものが嫌いで子供に興味がない義父というあまりいいとは言えない家庭なんですね。

ところが、この物語ではアーヤが悪人を倒すのではなくこの家に住み続けるため、ベラやマンドレークがちゃんと「いい人」に改変される必要があります。それをわかりやすくするためため、映画では「いい人の素質」や「悪く見える理由」としての改変が入っているように思います。具体的に述べると、以下のような感じです。

ベラ・ヤーガ
外見は原作よりも美人になっています。原作にはない営業電話のシーンは、人間らしい馴染みやすさが出ていると思います。また、ベラがキレるシーンですが、(原作でも映画でも)母親というものについてアーヤから言及され、その直後にアーヤをぶっています。

原作ではただのブチキレたおばさんなんですけれど、映画だと別の取り方ができる可能性があります。おそらく妊娠が理由でアーヤの母親がグループから去ったと思われるので、そのことも含めて「お母さんになりたいって言ったくせに!」というアーヤの言葉が響いたのかもしれない、という説です。

また、映画の冒頭でアーヤの母親を追っていたシエトロンはベラの車です。原作ではシエトロンはポンと置いてあるだけで誰かが乗ったという記述は一切ないんですけれど、掟を破って去る友人を取り戻したくて追いかけた、という話のような気がします。

・マンドレーク
ベラよりも大きな改変が入っていまして、まず外見が全然違います(原作ではハゲの妖怪)。そして原作との大きな違いは「小説家であること」です。この小説家であることが、1番いい改変だったと思います。

マンドレークは、怖いおばさんであるベラですら恐れる存在です。原作でもそれは変わりなく、おそらく家庭の中で皆が父親の機嫌を伺わなければならないという家父長制の雰囲気の投影じゃないかなと思います。

マンドレークは原作でも「なんでパンの焼き方を教えてやらないんだ」というセリフを言います。一見するとテキトーしているベラに対して子供の教育を促しているように見えるんですけれど、これ多分「子供に興味がなくて育児に加担しない父親像」だと思います。

普段から煩わしいことが大嫌いで、家人に自分の領域に入って欲しくない、子供に興味がなく育児もしない、というマンドレークの特徴を「書斎にこもりがちで気難しい小説家」でうまくクリアしているんです。

さらにアーヤにお菓子の差し入れをすること(原作にはない)により、「何でパンの焼き方を教えてやらないんだ」というセリフが「お前が子供の面倒をみとけよ」から「ちゃんとこの子のことを気にしてやれよ、俺はちょっとは気にしてる」に変わるんです。

そして映画における最も大きな改変は、実はエンディングロールです。

エンディングロールでは平和になった後の笑ましい家庭の様子が描かれ、ベラはちゃんとアーヤに魔法を教えてくれるようになり、マンドレークは気難しさの原因が解消されました。ジョーンズが描けなかった『アーヤと魔女』の続きが、ジブリテイストの優しいタッチで微笑ましく描かれます。

詳しい内容はあえて言いませんが、このエンディングロールがめちゃくちゃ良かったです!アーヤと魔女2と言っても過言ではないくらいの満足感がありまして、ここですごく素朴なジブリらしさを感じました。この内容で続編出して欲しいくらいです。

『アーヤと魔女』は原作が完結していないため、どうしても埋められないところや伏線があります。ですが、色んな要素を追加して大胆にその隙間をうまいこと埋め、最後には幸せな展開を創作している、というところがすごく良かったです。

↓以下、原作との違いについてざっくり箇条書きで書き残しておきますね。

原作においてアーヤの母親は…
・1ページちらっと姿が出るだけ。外見も地味で赤毛かは不明。
・そもそも魔女の掟というものが存在していない。
・バンドはしておらず、アーヤにカセットを残してもいない。
・ベラ達とは面識がない。
・バイクには乗っていない。
・作中では赤子のアーヤを預けたっきり出てこない。

原作においてベラ・ヤーガは…
・バンドはしていない。
・家にあるシエトロンに乗ったという記述はない。
・アーヤと仲良くしている描写は一切ない。

原作においてマンドレークは…
・小説家ではない。
・外見は大きく異なり、ハゲているおじさんの妖怪みたい。
・バンドはしていない。
・アーヤに差し入れはしていない。
・部下のデーモンは全くかわいくない!百鬼夜行みたいな挿絵がある。

『アーヤと魔女』の映画は原作の隙間をうまく埋めたところが面白くていいんですけれど、実はすごく悪い点が1つあるんです。それは、アーヤの賢さや強さの一部をおべっかで表現したところです。これが本当に唯一の汚点って言っても過言じゃないと個人的に思います。

アーヤは、うまく周りの人達を操って自分の思う通りのことをさせてしまう、という能力があります。ここは原作と一緒なんですけれど、実は原作においては具体的にどうやって操っていたかの手法がいまいち不明なんです。子供の家で大人を操っていた方法や、最終的にベラとマンドレークを自分の虜にさせた方法が謎なんですね。

それが映画で具体的に描かれているんですけれど、なんとその方法が「人に大好き!と言って好意をふりまき、明らかに思ってもいないようなお世辞や嘘をついて人を喜ばせる」なんですよ…つまり、他人をいい気分にさせて自分への好意を引き出そうという話なんですね。

これ、原作では一切そういうことはしてないです。

アーヤの本来の強さは、辛い環境にもめげず、逆に無慈悲な大人をうまいこと利用して生きていくというところです。原作でのアーヤは、(故意ではないですが)ヤバい大人をどうにかするためにもっとヤバい大人を当てたり、大人の都合に対して自分の望みは双方メリットがあることを持ち出して交渉したりしていました。

アーヤの人を操る方法が不明であったため、映画では辻褄を合わせようとしてあんな感じになったのだと思います。しかしそれなら、「人の長所を探して褒めてあげると、私にも優しくしてくれる!」とかであって欲しかったという気持ちがあります。明らかに思ってもいないような嘘をついて人を喜ばせる、そしてそれは人を喜ばせたいからではなく、自分の希望を叶えさせるため。めちゃくちゃ性格が悪く見えるんです…

『アーヤと魔女』の原作は、大人向けではなく小中学生向けの本です。読んでみて感じたテーマとしてはおそらく、過酷な環境にある子供に対して勇気を与えることであるとか、大人は力を持っているが、子供にも意思はあるのだということだと思います。

分かりやすいのは児童労働に対してアーヤが立ち向かうというメインストーリーです。しかし実は序盤で既に「大人の思う子供像」と「実際の子供」の対立が見られます。養子を探しに来た親達に対して、アーヤは「一方的にはしゃいで可愛いと決めつけて気持ち悪い、あの子達は人形じゃないのに」といった内容のことを言います(映画でも原作でも)。大人の見る「子供の在り方」がそこに現れているんです。ベラも親達も、「働き手としての子供」「可愛いと愛でるための子供」みたいな視点で子供を見ているんですね。(※勿論、親達に関してはアーヤの感想なので真剣に子供に向き合った育児を考えている親もいっぱいいたと思います。)

良かれ悪かれ大人からの力というものに屈しない、というのがアーヤの魅力だと思うんです。養い親は酷い人達で、普通なら恐怖で萎縮してしまいそうなところでそうならない。逆に「おばさんのことは見抜いてたよ!魔法教えて!」と交渉する強さ。

つまり、環境や大人に立ち向かう機転や勇気を持った女の子の話なのに、大人に媚びを売るおべっかで解決するというのは本末転倒なんです。特に「私、○○大好き!」「○○を尊敬してるの!」っていう嘘をつきまくるのが良くない。アーヤは探し出した相手の長所を褒めてることもありますけれど、明らかな嘘をつくこともあるんです。そういった表裏があるので、観ている人はアーヤの善意が本物か疑ってしまい、アーヤの魅力が減るんです。

原作ではアーヤの性格について「挑戦が好きで、いつか魔法を使いたいと思っていた」という性格なんかもはっきり書かれているので、アーヤの魅力が分かりやすかったというのはあるかもしれません。でも、映画のおべっか使いはほんとにいらなかったと思う…

ちなみに「アーヤの本名のアヤツルがおかしい!不自然!」という意見をたまに見かけますが、この名前はそもそも訳本の時点でアヤツルです(監督や脚本のせいではありません)。これはおそらくearwigが原文です。

earwigはハサミムシという意味があり、訳本の挿絵でもそれを反映してかアーヤはツンツンした髪型をしています。辞書で調べると、古い英語で「こっそりほのめかすことで人をそそのかす、陰であやつる」といった意味が出てくると思います。おそらく言葉遊びの1つです。

この映画は観る前から賛否両論らしい、というのは知っていました。何しろ検索しようと思ったらサジェストに「アーヤと魔女 大コケ 酷い」とか出てくるんですね。あと、「私のどこがダメですか」「わたしはダレの言いなりにもならない」っていうキャッチコピーが陳腐であんまり興味そそられなくて、ぶっちゃけ観るのやめようかなって、ちょっと悩みました…でも、大コケというほどではないと思います!

先述の通り、そもそも『アーヤと魔女』は未完の作品。回収しきれていない伏線ですとか、詳細が決まっていなかったであろう箇所なんかが原作の中にちょいちょい見受けられます。それをうまく消化したり、原作の長さに合わせて短くなってしまう上映時間の中でアーヤと養い親達をうまく和解させてハッピーエンドに持っていく。そのためにアーヤの母親と養い親が実は知己でバンドを組んでいたという大胆な設定を盛り込んだのに、失敗しなかったのが普通にすごいと思います。

また、ベラ・ヤーガやマンドレークはアーヤに対して「酷いことをしてごめんね」みたいな謝罪は映画でも原作でも全くしないんですけれど、たった80分でベラ・ヤーガやマンドレークがどうしようもない悪役ではないこと、うまくやっていける可能性があることを自然と示すことができたのも、いい感じの終わり方に繋がりましたね。

ただ、唯一の難点が原作のアーヤの在り方とは相反していそうな言動を映画のアーヤがしてしまうということです。もしかすると自分の感じたアーヤ像と映画で推されているアーヤ像がずれたというだけであり(よくあることです)、あんな風に感じているのは自分だけかもしれません。でも、全体としてのストーリーの流れがだいぶ原作に忠実であるので、アーヤの本来の良さが全て失われたとかいうことはないんですよ。ちゃんと物語を楽しめるようになっています。

そして何より、この映画で評価がめちゃくちゃ高いのがエンディングロールなんですよね。これが良かった!っていう話、結構見かけるんです。自分も、かなり良かった!と思いました。この映画の悪いところがほぼ相殺されるくらい良かったです。内容は完全に創作でして原作には一切出てこないものではあるんですけれど、ここでジブリの描く優しくて楽しい家庭の日常をすごい感じました。

※ジブリ作品は、Amazonプライムで観ることができません。

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